2017年01月15日

<円谷幸吉>最愛の女性 五十回忌機に心境

1964年東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉(須賀川市出身、1940~68年)には、結婚を考えながら68年のメキシコ五輪前に破談になった女性がいた。円谷の五十回忌を迎えたのを機に、女性が河北新報社のインタビューに応じた。

【円谷幸吉】ひたむきな姿 後世に
 女性は円谷の1歳下で福島県在住の74歳。高校を卒業した円谷の最初の配属先、陸上自衛隊郡山駐屯地で62年まで1年間共に勤務した。円谷の一目ぼれだったようで、遠征先で買ったかすりなどの民芸品の土産や手紙がこまめに送られてきた。
 「よく、にこにこして私がいた厚生課に顔を出していました。とてもいちずで、真面目な人柄。何事にも一生懸命だった」と振り返る。
 円谷の遺体が発見された68年1月9日のことはよく覚えているという。「風が強い日で午前2時ぐらいに、住んでいたアパートの窓ガラスを人がたたくような音がしたんです」

 腰の手術をした実母が痛みが取れず苦労したのをそばで見ており、「(椎間板ヘルニアで悩んでいた)円谷さんのつらさはよく分かる」と言う。円谷の訃報に接し「気の毒だと思った。周りに、(選手を)やめるように言ってくれる人がいなかった」と思いやる。
 66年、2人の縁談は自衛隊体育学校長が結婚時期や式場の場所で横やりを入れたことをきっかけに白紙となった。女性は翌年秋、地元の男性に求愛されて結婚。「私も自衛隊にいたから分かるが、結婚でも何でも、当時は上官には逆らえない雰囲気があった」




 3年半後に再び巡ってくる東京五輪に向け「野球・ソフトボールを被災地である福島県でぜひ開催してほしい。他の競技でも円谷さんのように、国民を元気にするような活躍を期待しています」と話した。
posted by 得笠野 哲太 at 14:21| 2017 歴史 | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

坂本龍馬が慶応3(1867)年に暗殺される5日前に記した直筆の書簡を発見。

 幕末の志士、坂本龍馬が慶応3(1867)年に京都で暗殺される5日前に記した直筆の書簡が見つかった。高知県が13日午後、発表した。約1カ月前に将軍、徳川慶喜が大政奉還したことを受けて福井藩の重臣に宛てた書簡で、文中には「新国家の御家計(財政)」という言葉が使われ、新政府の財政担当者への出仕を懇願している。龍馬研究の進展が期待できる一級の史料といえ、研究者は「龍馬が新しい国家の樹立を目指して活動していたことが明確になり、歴史的価値は極めて高い」と評価している。【錦織祐一、最上聡】

 福井藩重臣宛て 財政担当者への出仕懇願
 書簡は縦16センチ、横92センチで、11月10日の日付。京都の福井藩邸に滞在していた同藩重臣、中根雪江宛てで、本文中には「龍馬」の署名があった。

 大政奉還を受け、徳川家の親藩だった福井藩の前藩主、松平春嶽の京都入りを「千万の兵を得たる心中」と歓迎。龍馬は同藩士の三岡八郎(後の由利公正)を新政府の財政担当者に推挙していたが、三岡は幕府に強硬な姿勢だったため謹慎処分中だった。そのため、書簡で「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御家計御成立が一日先に相成候(三岡の京都入りが1日遅れれば、新国家の財政成立が1日遅れてしまう)」と訴えている。

 三岡は龍馬暗殺の翌月に京都に入り、新政府の五箇条の御誓文の起草に関わったほか、初期の財政も担当した。

 龍馬の書簡で「新国家」という言葉が確認されたのは初めて。鑑定した京都国立博物館の宮川禎一上席研究員は「龍馬が死の直前まで新政府の樹立、新国家の建設に専心していたことをよく示す、貴重な史料だ。龍馬と福井藩との関係の研究も進展する」と話す。

 書簡は、大政奉還と明治維新から150年を記念して高知県が開催する歴史博覧会「志国高知・幕末維新博」のため、全国の史料を調査する中で発見された。どのように保管されていたかや発見の詳しい経緯は明らかになっていない。3月4日から県立高知城歴史博物館(高知市)で公開される。龍馬の書簡は、暗殺される2日前の11月13日の日付で海援隊士だった陸奥宗光に宛てたものが現存では最後とされる。

 考え色濃く
 三浦夏樹・高知県立坂本龍馬記念館学芸員の話 「新国家」建設に向け、龍馬が尽力していたことを示すものだ。龍馬の文字の特徴は出ているが、数ある書状の中でもきれいで丁寧に書かれており、松平春嶽に見られることも意識したのでは。何よりも国家建設には財政・経済が重要で、その任を担えるのが三岡だという、龍馬の考えが色濃く出ている。




posted by 得笠野 哲太 at 14:35| 2017 歴史 | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

(伊達政宗)青年期~晩年 書状を寄贈 元会社役員中森高さん(84)

宮城県大崎市が11日、報道機関に公開した仙台藩祖伊達政宗の書状と公文書計6点は、政宗の青年期から晩年までと書かれた年代が異なる上に、書状の宛先も他藩の藩主やシンパ、息子とさまざま。専門家も「政宗の交友関係や酒癖まで分かる貴重な史料」と評価を与える。

 寄贈したのは岩出山出身の元会社役員中森高(たかし)さん(84)=神奈川県藤沢市=。中森家は岩出山伊達家の家臣の家柄で、中森さんは首都圏の岩出山出身者の親睦会「東京有備会」の会長を務めたこともある。地元に藩制期の史料が残っていないことに心を痛め、政宗の書状などを私財を投じて収集してきた。

 「いずれ古里の岩出山に寄贈するつもりで、50代の頃から集め始めた」と中森さん。元仙台市博物館長で、政宗の書簡研究の第一人者佐藤憲一さん(68)=美里町=の助言を仰ぎ、古美術市場で7点を集めた。
 今回寄贈したのは本文、花押(かおう)(書き判)とも政宗直筆のもの2点、本文は右筆(ゆうひつ)(秘書官)が書き、政宗が署名したもの3点、政宗の黒印が押された公文書1点の計6点。

 最も早い時期のものは、政宗が数え21歳の時に田村氏(政宗の妻愛姫の実家)の親伊達派家臣に送った、天正15(1587)年10月18日付の書状。山形の最上義光にそそのかされて謀反を企てた家臣を成敗したいきさつが、右筆の手でつづられている。
 寛永9(1632)年1月16日付の直筆書状は、仙台藩2代藩主となる次男の忠宗に宛てたもの。江戸城内にあった徳川家康の霊廟(れいびょう)への参拝を延期する旨が記されている。徳川家光に将軍職を譲り、隠居していた徳川秀忠の病状悪化を考慮したとみられる。秀忠は同月24日に死去した。

 寄贈品は旧有備館(同市岩出山)で今秋にも一般公開予定。佐藤さんは「書状は21歳から68歳までにわたり、有名なセキレイの花押の形が年を追って変化する様子も分かる。政治的な状況も浮かび上がってくる」と評価する。




posted by 得笠野 哲太 at 21:56| 2017 歴史 | 更新情報をチェックする